いつもこころに斬鉄剣

ミーハー俳優オタクの雑記

【まほろ駅前多田便利軒】多田啓介と行天春彦と愛の話

はじめに

私がここで語る『まほろ駅前多田便利軒』とは、東京の西南部に位置する「まほろ市」という架空の街で便利屋を営む、三十歳そこそこのバツイチ貧乏男、多田啓介(ただけいすけ)と、成り行きで同居生活を送ることになった中学時代の同じくバツイチ同級生、行天春彦(ぎょうてんはるひこ)との、何でもないようでいつも何か事件の起こる毎日を描いた邦画作品だ。原作は三浦しをんの同名小説で、多少設定の違いやエピソードの短縮はあるものの大体がイメージのままで映画になっている。

私はここで、多田啓介(演:瑛太)と行天春彦(演:松田龍平)のパーソナリティと関係性がどれだけ最高かについて語っていく。なぜ?と言われたらそれは語りたいからでしかなくただの自己満足なのだが、これを読んで興味を持った人が映画を観てくれた、もしくはまほろ好きが楽しい気持ちになってくれたならうれしく思う。

映画をベースにしながら、時折原作の描写も参考にしつつ書いていくこととする。とりあえずは1作目の多田便利軒についてだけ触れようと思うが、その後に続く番外地と狂騒曲も視聴済みの頭で書いている。ネタバレはめちゃくちゃするので、今後ネタバレなしで観たい、読みたいと思っている人はこの記事は読まないようにお願いします。というか、観てるか読んでるかじゃないと伝わりにくいかもしれないが、頑張って書く。

 

目次

 

多田啓介という男

 多田啓介はバツイチで貧乏で小汚く、まほろ駅から走って1分、歩いて3分のところで便利屋を営んでいるアラサー後半の男だ。いつも吸っているのはラッキーストライクのボックス。物語は12月、ある女性からの依頼でチワワを預かるところから始まる。

このとき多田は非常に嫌そうな素振りを見せ、「生き物を預かるのは今回だけですからね」と言う。そして神経質にチワワの世話をし、チワワの小刻みな震えを見て不安になり夜中に動物病院へ電話したりする(そして「チワワは臆病でいつも震えている生きものなんです!」と電話を切られる)。

これは重要な伏線になっており、物語の後半で、多田が離婚した理由は自分の不注意で幼い子どもを死なせてしまったからだ、ということがわかる。多田は生き物の命に責任を持つことを恐れているのだ。私は、すべて観終えた後、チワワは多田のメタファーなのではないか?と思った。多田に抱いた最初の印象は、不器用なほどまっすぐで真面目だ、というものだった。それは間違ってはいなかったのだが、観ていくうちに、多田は臆病な人間で、傷つくことを恐れ、常に虚勢を張っているようにも思えてきた。いつも震えているチワワは、いつも何かに怯える多田を示唆しているのではないか?また、原作では多田は「チワワは嫌いだ」と思っている。これは多田が自分を嫌いだと思っていることの暗喩ではないだろうか。さらに、多田はチワワの飼い主の女の子に「チワワが震えているのは、小さいけど精一杯生きているからだ」と言われる。これも、多田が過去の苦しみと日々の生活と、いろんなことに苦しみ喘ぎながらも一生懸命に生きているということではないか、と私は思った。

チワワを預かった多田は、年を越して1月、別の仕事にチワワを連れて出かける。夜までかかってその仕事を終えた後、放しておいたチワワがいないことに気が付く。多田はチワワを探して道に出る。すると、終バスも出た後のバス停のベンチにチワワを抱いて座っている男を見つける。それが中学時代の同級生(原作では高校)、行天春彦だった。

行天はボサボサ頭にコート、足下は便所サンダルというちぐはぐな格好をしており、駅まで送ると申し出た多田に「今晩泊めてくれ」と頼む。多田は一度は断るものの、実は中学時代に自分の不注意で行天の右手の小指を切断させる大けがをさせてしまったことがあり、その負い目を感じて泊めてやることにする。

ここにも多田の弱さが見える。多田が行天を泊めたのは、結局のところ自分が許されたいからだ。行天のためではない。このとき、恐らく多田の中では【死なせた子ども≒チワワ≒怪我をさせた行天春彦】の式が成り立っており、すべてが「ひとつの命」として数えられている。行天が「犬はね、必要とする人に飼われるのがいちばん幸せなんだよ」「あんたにとって、犬は義務だったでしょ?でもあのコロンビア人(チワワを譲った人)にとっては希望だよ」「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」と言うシーンがある。つまり、多田にとって行く当てのない行天を見捨てることはやってはいけないことであり、拾ってやるのは「義務」だったのだ。そして、なぜかそのままだらだらと同居生活が続くことになるのである。

その後色々なことがあり(次の『行天春彦という男』で詳しく書く)、ある日多田は、行天が命の危機にさらされていると聞かされる。それを聞いた多田は、行天を見つけようと走り出す。走っている多田の脳裏に浮かんでいる行天のカットは、ここまで私たち視聴者が見てきたシーンにおける、多田の目線からの行天だ。このとき、多田は明らかに行天を「行天春彦」として認識していることがわかる。つまり、ここまでの共同生活の中で、多田のなかの行天は「ひとつの命」から「行天春彦」という名前の付いた存在になったということだ。この後、多田は腹を刺されて血を流している行天を発見することになる。

多田は極めて鈍感だ。恐らく、この時点でも自分が行天に抱く気持ちの変化に気が付いていない。理性で考えて制御しているふりをしているだけで、実は常に感情的に行動している。どこか一線を越えてしまったら歯止めが利かなくなるような狂気性を秘めている。他人の感情の機微にも鈍感で、原作では「すべて、あとから聞いた話だ」というフレーズが何度も使われている。

刺されたものの、手術をし事なきを得て多田便利軒に戻って来た行天に、ある夜、多田は八つ当たりする。行天の髪の毛を掴み、お前は全部持っているのに持っていないふりをしている、などと言う。そして涙ながらに自分の過去を打ち明ける。先に記述した、幼い子供を死なせてしまったこと、さらにその子は奥さんの浮気でできた子かもしれなかったのに、怖くてDNA鑑定をしなかった、ということ。それを話し終えると、「明日には出て行ってくれ」と言う。行天はこれらすべてを静かに聞いて、自分の小指を触らせて「ほら、触っていればじきにぬくもってくるから」と言い、最後は「うん」と返事をし、次の朝にはいなくなる。

多田はとても自己中心的だ。行天にも暗い過去があり(後に記述する)行天なりの苦しみがあったことをわかっていながら八つ当たりをしている。原作では「自分と同じ苦しみを体験した人がほしい」と書かれている。つまり自分の痛みを軽減するために行天を痛めつけたのである。さらに聞かれてもいない過去をべらべらしゃべって、聞かせるだけ聞かせたら出て行ってくれと言う(手術後の行天に、多田便利軒に戻ってこいと言ったのは多田である)。多田は自分の不幸を強く憎み、悲しみ、ある意味悲劇のヒロインぶっているところがある。自分で自分を許せないという奴は大概心が弱い奴の言い訳だ、というのが私の持論なのだが、多田啓介はまさにそうだ。自分で自分を許すのは、人に許してもらうよりもずっと簡単だ。でもそうしないのはずっと悲しみの沼に浸っていたいからだと私は思う。多田はきっと、過去に区切りをつけて前を見ることが面倒なのだ。

こう書くと多田はあまりいい人ではないように見えるかもしれないが、決してそうではない。始めに書いたように、多田への第一印象は「不器用なほど真面目でまっすぐ」であり、その印象は継続されている。他の面が見えてきたというだけで、基本は真面目で困っている人を放っておけないお節介なのだ。ただ、やはりその「お節介」の下には(無意識か意識的かはわからないが)自分が過去に犯した過ちへの贖罪、人を救うことで自分が許されたいという気持ちはあるのだと思う。原作で行天が多田を「昔はそんなんじゃなかった、要領が悪くなった」と称していることからも、きっと、子どもを死なせたことで多田が変わったのだとわかる。

行天がいなくなった後、多田はかつて行天と見た飛行機を見に行く(行天は飛行機が好きらしい)。そこで、まほろ署の刑事と出会い、「人を助けても自分を救うことにはならないよ」「あんなクズ(行天を刺したチンピラ)でも、誰かに必要とされてるんですわ」と言われる。そして多田は飛行機を見上げるのだ。

このシーンには私にとってすごいエモーショナルなものが凝縮されているのだが、いかがだろうか。恐らく、ここでやっと多田は「行天は自分に必要な存在だった」と認識する。「自分を許すために誰かを必要としてもいいんだ」ということに気が付く。そして、行天の好きな飛行機を見上げる。恐らくはかつて自分の隣でマルボロメンソールを咥えて飛行機を見上げていた男のことを想いながら。どうだろうか。エモくはないだろうか。

 行天は現れないまま季節は巡り、やがてまた年末になり、年を越して、多田はまた去年と同じ人から同じ依頼を受ける(ちなみに、岡という老人がバスの間引き運転の監視を依頼している)。夜になり、監視が終わった報告をしに行くと、多田は岡老人に「なんだ、元気がないな、笑え!笑う門には福が来る!」と言われる。多田はぎこちない笑みを見せ、その家を後にする。

私としてはもう「多田、行天がいなくて元気がないのかよ~!!!!」というところでいっぱいいっぱいなのだが、多田は車に乗る前に道に出て、1年前に行天と再会したベンチを見に行く。しかしそこには誰もおらず、多田は車に戻って帰ろうとする。そのとき、チワワのような小型犬の鳴き声が聞こえ、多田はもう一度ベンチを見に行く。そこには、今度は何も抱いていない行天春彦が座っていた。

多田は行天の隣に腰を下ろし(ちなみに1年前は立ったまま会話をしていた)、「バス、もうないぞ」と言う。行天は「知ってる」と言い、少し間が空いた後に「帰るぞ、多田便利軒は只今アルバイト募集中だ」と言って返事も聞かずに「いくぞ」と歩き出す。行天は「え、なんで?」と笑いながら、その背中を追っていく。

「笑う門には福が来る」で笑ったら行天が来た、つまり行天春彦は多田にとっての「福」なのである。チワワを抱いておらず、小指の傷も完全ではないが癒えているはずの行天を拾う「義務」はない。しかし多田には行天が必要なのだ。先に、行天が「犬はね、必要とする人に飼われるのがいちばん幸せなんだよ」「あんたにとって、犬は義務だったでしょ?でもあのコロンビア人にとっては希望だよ」「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」と言うシーンがあると書いたが、このとき行天は多田の「希望」になっていたのである。原作で、多田が「だれかといると寂しいからひとりで居たい」と思っている描写がある。しかし行天と暮らすうちに、ひとりが寂しく、ふたりでいることが幸福になったのだ。

原作の最後に、「幸福の再生」という言葉がある。映画ではあまり触れられなかったが、原作には、行天の切断された小指はくっついてはいるが動きはぎこちなく、いつも冷たいとある。そうした冷たい部分を抱えて生きるとはどういうものだろう、と多田が思う様子も描かれている。「幸福の再生」とは、そうやって失ったものは完全には戻ってこなくても、幸せは別の形で取り戻すことができる、という意味だと思う。

不器用でかっこ悪くて、真面目で要領が悪く、自己中心的で鈍感、行天春彦に幸福を再生する希望を見出している、多田啓介はそんな男なのである。

 なお、私がここに長々と4000文字くらいかけて書いたことの簡略版は以下の一連の5ツイートに書いてある。

 

行天春彦という男

行天春彦は多田と同じくバツイチで貧乏で小汚く、さらに子持ち(でも子どもに会ったことはない)で、つかみどころがなく素性の知れないよく喋る男だ。いつも吸っているのはマルボロメンソールのボックス。前述のとおり多田とは中学の同級生で、多田の不注意で小指を切断してしまったことがある。多田によれば中学時代は無口であり、さらに原作には「小指を切断したとき以外、一言もしゃべったことがなかった」「頭も顔も良かったので他校の女子にちやほやされていたが、校内では無口な変人として知られていた」というような記述がある。

行天がベンチでチワワを抱いて多田と再会した時のひとことめは、「タバコちょうだい」である。「ラッキーストライクか」と遠慮なくタバコを受け取り、「もしかして、俺が誰だかわからない?」と聞く。多田は「いや、覚えてる」と言い、行天を駅まで送ると申し出るのだ。このとき、多田は見ていなかったのだが、行天は懐から新聞紙に包まれた包丁を出し、ベンチに置いていく。このとき行天は「実家帰り」と言うが実は行天の両親は引っ越した後であり、両親には会えていない。後から時系列を整理すると、このときの行天は仕事を辞めてほぼ無一文になった直後である。

多田と再会し、車の中で話しているときの行天の口調はどこか芝居がかったような棒読みの口調である。多田が返事をしなくてもひとりでよく喋る。行天は、自分でも自分がどこにいるのかよくわかっていないんだと私は思う。原作の冒頭に「自分の心の中が遠い」という話が出てくるが、行天はまさにそういう男だと思う。自分で自分を使い分けていくうち、本当がどこにあるかわからなくなり、変な人になってしまった変な人、という感じがする。

同居生活が始まってから行天が風邪をひいたときに、薬がないと言う多田に「寝てれば治る、俺の母親はいつもそう言ったよ」と言うシーンがある。これは狂騒曲へ続く伏線にもなっているのだが、なんとなくここからわかる通り行天はあまり親から目をかけられずに育っている。後から直接的に虐待を受けていたらしいことがわかる台詞もあり(後で詳しく書く)、本人は「自分は愛されずに育った人間だ」という強いコンプレックスを抱えている。

行天は基本的に多田の発言をよく覚えている。多田に褒められると嬉しそうにし、方向性は間違うことが多いものの、基本的に多田の役に立とうとしている。自分の最小限のお金とタバコを入れているお菓子箱に定期的にラッキーストライクを入れておく(原作では戸棚である)、という鶴の恩返し的なこともしている。これはやはり幼少期の愛されずに育ったコンプレックスが強く影響していると思われる。自分の世話をしてくれる人間の機嫌を損ねてはいけない、役に立たなければいけない、という気持ちがどこかで働いているからこその言動ではないだろうか?

先にも2回書いたが(私にとってこの発言はものすごく重要なので)、行天の「犬はね、必要とする人に飼われるのがいちばん幸せなんだよ」「あんたにとって、犬は義務だったでしょ?でもあのコロンビア人にとっては希望だよ」「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」という台詞がある。行天は誰かに必要とされ、誰かの希望になりたがっているのだ。行天は繊細なのでもちろんそういうニュアンスを滲ませてこの台詞を言ったのだが、多田は鈍感マシンガンなので全然気づいていない。でも行天は多田が鈍感なのでそれに気づかないということも分かったうえで言っている。のだと思う。

依頼の中のひとつに、子どもを塾に送り迎えするというものがあった。その子ども(由良)は親に放置され気味で、行天と同じく「自分は親に愛されていない子どもだ」と思っている。由良は(自分がDVDで観ていた)フランダースの犬について「ネロに親がいないところが好き」と言う。行天はそれに関して「俺も思ったことあるよ、親がいないってなんてすばらしいんだろうって」と答え、「あのラストはハッピーエンドでしょ」と言う。それを聞いた多田は「子どもが死んでハッピーエンドなわけないだろ」と怒る。原作での多田は、行天は親がいないことが素晴らしい、と思っているから自分の子どもに会わないのだろうか?と思っている。

行天は、親という存在が愛を与えてくれないならいないほうがましだ、と思っている。そして子どもに愛を与える自信がないのだ。行天は恐らく自分をネロに重ね、自分がルーベンスの絵の前で死ぬことになってもそれはハッピーエンドだと言っている。行天は自分の命が惜しくないのだ。それは、自分は誰にも必要とされず、誰の希望ともなっていないと思っているからだろう(実際にはそうではないことが後からわかるが、本人はそう思っているのだ)。行天は自分に自信がない。自信がないからへらへらしていて、人一倍他人の評価が気になるから気にしていないふりを努めている。

しかし行天はその後、フランダースの犬の最終回を見て泣いている。これは多分、ただ単にネロがかわいそうだ、と思ったのだと私は思う。行天は優しいから。これに関してはまだあまり考えが及んでいないので、もう少し考察を深めたいところではある。

多田が、母に愛してもらえないという由良に、「生きていればやり直せるなんてことはない、やり直せるなんてことはほとんどない」「でもお前は、自分が与えられなかったものを誰かに与えることができるんだ、生きてればいつまでだって」と言うシーンがある。行天はそれを黙って聞いている。原作には何度か「行天は男とも女ともセックスしたくない生き物なんだろう」というような記述がある。行天は「愛」を恐れている。望んだ愛が与えられないことが怖いから最初から望まないことにして諦めている。このときの行天は、自分も誰かに愛を与えられるのか、愛されなかった自分でも人を愛せるのかについて考えているのだと思う。

夏になり、多田は偶然に行天の元妻・三峰凪子(みつみねなぎこ)とその娘・はると出会い、行天の過去を聞くことになる。凪子には長く一緒に暮らしている同性のパートナーがおり、子供が欲しかったが、日本では婚姻関係にない男女の不妊治療は受けられない。そのため仕事先で出会った行天に協力してもらい、契約によって婚姻関係を結び、産休中に離婚。人工授精でできた娘がこのはるだという。行天は頼まれもしないのに凪子に金を送っていたのだが、それが五千円や三千円、八百五十円だったりするので、会社に電話をしたらやめたと言われた。凪子は、生活には困っていないから、もう無理してお金は送ってくれなくていい、ということを伝えに来たという。

凪子は、「彼は子どもが怖いんです。自分が子どものときに、どれだけ痛めつけられ、傷つけられたかを、ずっと忘れずにいる人だから」と言う。やはり行天は虐待を受けて育っていることがわかる。行天は多分、子どもが自分に対して何も隠さない純粋な視線を向けてくることが怖いのだ。子どもは自分が愛されて当然だと思っている。行天は、その当然にこたえられる自信がない。

凪子はさらに、「春ちゃん(行天)はよく言っていたのに。『親に虐待されて死ぬ子どもはいっぱいいるのに、虐待した親を殺す子どもがあんまりいないのは、なんでかな』って」とも言っている。ここで明らかになるのは、行天は恐らく、多田と再会した夜は、両親を殺しに行ったが引っ越していてそのまま戻ってきたところだったということだ。目的を果たせず、行く当ても金もなかった行天がどうするつもりだったのかはわからない。また親を探しに行っていたかもしれないし、もしかすると自分なんてどうでもいいんだと死んでしまっていたのかもしれない。でもあの夜多田と出会ったことで、行天は包丁を手放した。

凪子は最後に「こう伝えてください。恐ろしいところに行かないで、と」と言う。これは原作では「向こう側に行かないで」となっている。あの夜、行天は多田と再会したことで「こっち側」の「安全な場所」にとどまったのだ。私は、行天は今、多田によってぎりぎり繋ぎ止められている状態にあるのだと解釈した。

 こうして多田が凪子の話を聞いている間に、行天は自分からとある厄介ごとを引き受け、刃物を持ったチンピラに追われる身になっていた。行天がこんなことをするのは誰かのためではなく、どうでもいいからなのだ。原作にも書いてあるが、行天は自分自身すらどうなってもいと思っている。また、非常に適当な服を着たり髪をぼさぼさのままにしていたりというのも、自分のことをどうでもいい存在だと思っていることの現れだ。原作ではさらに、左右別々の拾った手袋をしたり、多田に言われるまで散髪に行かず、伸びた前髪をゴムでくくったりしている。前にも書いたが行天は自分が誰にも必要とされていないと思っている。実際には凪子は行天を必要とし、現在でも大切に思っているし、行天の危機を聞いた多田は行天を救うべくして走り回るのだが、気づいていない。

腹を刺された行天は、多田が自分を見つけたときに「あれ……?」と言う。自分を助けに来る人はいないと、自分を見つけてくれる人なんていないと思っていたのに、多田が来た、という意味の「あれ?」だと私は思っている。行天はこのとき「どこにいても自分を見つけてくれる人がいる」ということに気が付いたはずだ。

行天は自分の痛みに鈍い。原作で、医者が「行天さんは痛覚が鈍いんですかね」言っているシーンがある。また、これも映画にはないが、「今の彼と別れたいので彼氏のふりをしてほしい」という依頼を受けた行天が、多田の「法律の範囲内で」という言いつけを守って解決するために、相手を殴らず自分で壁を殴り自分の血を出して怯えさせたというエピソードもある。行天は「暴力で脅すほうが手っ取り早いときもある」と言い、多田はそれを聞いて、でも無意味に自分を痛めつけただろう、と思うのだが、行天はどこか得意げにしている。それは、行天が自分の心の痛みにも慣れていることを示していると思う。

行天が「山下君(行天を刺したチンピラ)、お母さんとやり直せるかな」と言って多田に八つ当たりされたとき、静かに「知りたかったんだよ、人はどこまでやり直せるのかを」と言う。最初これを聞いたとき、意味がよくわからなかったのだが、これは多分原作での「言ったでしょ。俺は知りたいんだ」「子どもが親を選び直すことができるのかどうかを。だとしたら何を基準にするのかを」の台詞に当たる。恐らくは映画の尺の都合で原作のエピソードでいくつか描かれていないものがあり、この台詞は飛ばしたエピソードに関連するものだが全体としても重要な台詞なので、こういった形で入れることになったのだろう(このエピソードは番外地シリーズの5話にあたる)。つまり、行天は親に愛されなかったことで色々取りこぼしてしまった自分がどこまでやり直せるのか、そして、自分と血の繋がった子は、自分が血縁上の父親だと知ったときに自分を認めてくれるのか、そういうことを言っているのだと思う。あと直接は関係ないのだが、この台詞はどうも行天の口の動きと台詞が微妙に違っている感じがする(が、あまり口をあいていないしうつむいているので定かではない)ので、試行錯誤してあとからアフレコで入れ替えたのかもしれないな、と思っている。

その後、前に書いた通り、行天はあっさりと多田便利軒を出て行く。多田にとって自分は要らなくなった、と理解したからだろう。しばらくしてふたりはまたベンチで再会を果たす。「帰るぞ、多田便利軒は只今アルバイト募集中だ」と言われた行天は、「え、なんで?」と笑いながらも多田に着いて帰る。このときの行天は多分、再び多田が自分を必要としていることに気が付いている。自分は多田にとって、やっぱり必要な存在だったと思われていることがわかっている。そして多田は決して自分を見捨てはしない、いなくなってもきっとまた見つけてくれるはず、そう思って多田に着いて帰ったのだと思う。

つかみどころがなく適当に見えて、実は誰よりも優しくて繊細で、自分の痛みに鈍感で、愛に飢えて愛を恐れ、自分を見つけてくれる男をやっと見つけた、行天春彦はそんな男である。

 

ここからは邪推でしかないのだが、多田が1回目にベンチを確認しに来たとき行天はそれをどこか物陰から見ており、「もし、もう一度多田がベンチを見に来たら俺はもう一度多田に会おう」と決めてベンチに座ったのではないか?と思っている。多田ならまた俺を見つけ出してくれるだろう、と思ったのかもしれない、そして行天の思惑通り多田はもう一度ベンチを確認しに来たのかもしれない。とはいっても原作での行天は多田に声をかけられて驚いているので(映画では平然としていた)、こうだったらいいなあという希望的観測ではあるが、この再会はなんにしろ運命であることには変わりないだろう。

あと、行天は何か少し隠し事をしたり嘘を吐いたりするとき、「ん~……」という、考える素振りを見せる気がする(だからどうということはない)。

以下は行天春彦に対する私の邪推群。

 

多田啓介と行天春彦の関係性

 この話において一番大切なことは、多田と行天の関係性を推察することだ。直接は描かれていないシーンとシーンの間、行間、ページの余白、そういうとき多田と行天はどんな顔で何を話しているのか、そこをいかに想像で埋められるかが勝負だ。想像と言っても、妄想ではいけない。あくまでも実際に描かれている部分から出来るだけ多くの情報を拾い、検証、考察したうえで正解に近い答えを導き出すということだ。

お前は何を言っているんだ?と思ったかもしれないが、私は、多田啓介と行天春彦は実際にまほろ市にいると思っている。私は見たことがないだけで、まほろ市もあるし多田便利軒もある。そういうスタンスで作品に接していくことで、道は拓けると思う。

前置きが長くなったが、前のふたつの項目と合わせて、多田と行天の関係性を推察していく。

 

元々ふたりは正反対

 まず目をつけなければならないのが、多田と行天は似ているように見えて実は正反対だということである。年は同じでバツイチで、ヘビースモーカーで、小汚い見た目の貧乏なおじさん。見た目と肩書は同じだが、人格形成の過程が全然違う。もっと言えば、結果として同じようなものができたが、元々の材料は全く違っているということである。

多田は恐らく、親からの愛を存分に受けて育っている。行天が「あんたは要領よく大学出て、要領よく就職して、料理の上手い女と結婚して(中略)って感じの暮らしをするんだと思ってた」と言っている通り、一般的に幸せとされる家庭で愛されて育った子だ。

行天は逆に、今まで述べてきた通り、愛を受けずに育った子である。虐待を受け、風邪をひいても薬を与えられず、親を殺そうと思っていた(かもしれない)人間で、それは行天の心の中心にずっと深く残っている。

つまり、多田は愛を知っている状態から始まり、行天は愛を知らない状態から始まっているのだ。

多田が今のような状態になったのは、元妻の浮気が発覚、できた子は自分の子ではないかもしれない、だがそれに目をつぶり幸せなままでいようとしたが、自分の不注意によって子どもを死なせてしまった、という出来事があったからだ。つまり、幸せに失敗したのである。愛を掴むことに失敗した多田は、自分の手により壊してしまった愛を忘れることができず、トラウマを抱いている。

しかし行天には壊す愛も忘れられない愛もない。ずっと探している。愛を知らないことを恐れている。知りたいと願いながらも、望んだものが与えられないことを恐れて最初から望まないようにしている。前の項目で何度か書いたように、行天が自分が必要とされているということになかなか気が付かないのは、愛情の形を知らないからだ。

結果として、ふたりとも、そこにあったはずの愛を望み「幸福の再生」を願うことになったのであるが、多田は元々愛情の形を知っていたということを忘れてはならない。

 

ふたりは救いあうことができる

そんな、反対だけど似ているふたりだからこそ、お互いに救いあうことができる。

一見多田が自由奔放な行天に振り回されているようだが、実は行天が多田に気を回していることも多くあって成立している関係性だ。行天はあまり怒ることがない。逆に多田は基本的に怒っている。それは行天が多田を怒らせるようなことをしているからではあるのだが、多田も行天に怒られても仕方ないことはしている。例えば多田は行天に盛大な八つ当たりをして髪の毛をひっつかんでいるが、行天は怒ることなく静かにその手を離させただけだった。原作では理不尽にキレた多田がゴミ箱を蹴飛ばしてラーメンの汁をこぼすがそのままにして寝たふりをし、夜中にそっと行天が拭き取るという場面もある。そういう優しさや気遣いは多田にはない。

しかし、多田の困っている人を放っておけない性格が行天を助けている。始めこそ罪悪感から行天を拾ったものの、その後も行く当てのない行天をずっと泊めていたのはそういう性格からだろう。きっと、常にまっすぐな多田の姿勢は行天を安心させている。多田は自分を必要としている、ということに気づいてからは、こいつと一緒にいれば大丈夫、間違ったことにはならないという気持ち、絶対に見捨てられはしないという気持ちがある。

多田は不器用なほど真面目でまっすぐで、要領が悪いお節介だ。行天はつかみどころがなくふわふわとして、繊細で優しくて自分の痛みに鈍い。多田のお節介が自分の痛みに気が付かない行天を救い、行天の優しさが多田の過去の傷をだんだんと癒している。

多田は、最初の頃、行天について「お友達?」と聞かれたとき「まさか」と答える。映画ではそれだけだが、原作には続きがあり、行天が刺されて入院した時に、多田は行天のことを「友人です」と言う。よく見る手法だが私はこれが好きだ。すごくいい。いっそ形式の美学と呼びたい。これは明らかにふたりの関係、というか多田の行天に対する認識が変化したことを表している。「友人」と言葉に出して言えるほどの関係だと認めているということである。

原作では冒頭、多田が老人から「あんたは来年忙しくなる、旅に出たり、泣いたり笑ったりする」という予言を受ける。その予言は的中と言うべきか、次の年に行天と再会し、てんやわんやな日々を送ることになる。そして終盤、多田は同じ老人から「家には帰れそうかい?」「あんまり長く旅を続けると、帰る場所がわからなくなるからね」と言われる。多田は「旅行なんてしてませんよ」と答えるが、老人は「適当なところで引き返した方がいい、迷子になる」と言う。

多田はきっと、行天と一緒に行先の見えないバスに乗ってしまったのだ。多田は行天春彦という「幸せの再生」への「希望」を得て、行天は多田啓介という「自分を必要とし、希望とする人」を得たのだ。互いに不完全な彼らは、お互いを求めあうことによって幸せの形を探す旅に出ているのだ、と私は思う。きっと、泣いたり笑ったり色々あって、楽しい旅になるはずだ。

そしてこれは全然誰にも伝わらなかっただろうツイートである。もし分かった方がいればご一報ください。

 

ちなみに、以下はこういう理屈をこねくる前に多田と行天の関係性を言葉にした、一番フレッシュな考察のツイートである。

 

言葉の要らない関係

このふたりの関係性でとても魅力的なところは、絶妙な距離感である。これは三浦しをんが非常にうまく書いているからで、すごいです、ありがとう、ということを書きたかっただけであるが、例えばどういったところかをいくつか挙げる。

まずは最初、多田と行天が再開するシーン。「実家に行ってきた帰りだ」というが、明らかに格好は変で時間も遅い。しかし多田は詳しく事情を聞くことはせず、行天を送っていく(結局泊めることになるのだが)。このときは関わるのが面倒だと思っただけかもしれないが、その後も多田は行天の過去を探るようなことはしない。それは行天も同じで、共同生活をしているが互いに干渉しすぎない距離を保っている。

また、多田が行天のお菓子箱にラッキーストライクを発見して持っていく場面。行天はラキストを入れておいたことを言わないし、多田は発見して何も言わずに持っていく。このふたりの間に「ありがとう」はあまりない。お互いに照れくさいのかもしれない。しかしそれは言わずとも伝わっている。

多田が行天に「出て行ってくれ」と言ったシーンでも、多田は理由を言わないし、行天も聞かない。そしてラスト、また多田が行天を拾うシーンでも、多田は「追い出してごめん」とも「また一緒に住もう」とも言わない。「帰るぞ」「行くぞ」だけだ。でもふたりの関係はそれで成り立つ。

三浦しをんは男同士特有のそういう空気感を描くのが上手いと思った。これは女同士にも男女にもない距離感だと思う。まあ私は男ではないのでリアルなところは知らないが、それはどうでもいい。女がときめきを感じる男同士の距離感のリアルはこれだ。こういう、言葉の要らない男同士の関係に憧れがある。この絶妙なふたりの距離が、関係性の魅力を引き立てている。

 

キーアイテム・スポットについて

ここで少し、私がこの映画において重要な意味があると思うモノについて触れたいと思う。

 

チワワ

チワワはこの物語において非常に重要な役割を担っている。今まで書いてきたように、まず多田のメタファーであり、次にひとつの命としてある。初めは特に【チワワ≒行天】として描かれているから、その役割が強い。また、何度も繰り返し書いた行天の「犬はね、必要とする人に飼われるのがいちばん幸せなんだよ」「あんたにとって、犬は義務だったでしょ?でもあのコロンビア人にとっては希望だよ」「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」という台詞は、行天は誰かに必要とされたがっているということがわかる台詞であり、のちに行天が多田の「希望」になったことを示唆するものであるから、とても重要である。

さらに、チワワは多田と行天の架け橋になっている。もしあの夜チワワが道に出ていなければ多田はそのまま家に帰っていたし、行天がチワワを抱いて終バスを見送ることもなかった。チワワは多田と行天の再開を演出するキューピッドでもあっただろう。

 

バス停

バス停は恐らく、旅の始まりを示唆するものだと考える。このバス停でふたりは2回出逢った。そしてここからバスに乗り(多田と行天が実際に乗るのは軽トラだが)、幸福の再生への旅に出たのだ。

 

タバコ

 この映画で一番存在感のあるアイテムはタバコだろう。喫煙描写の制限されている昨今には珍しく、多田と行天はタバコを吸いまくる。演じている瑛太松田龍平も喫煙者であるからか(瑛太さんは今はわかんないけど少なくとも7年位前のボクらの時代では吸っていたので、多田便利軒の撮影時はそうだったはずなんです)、吸い方が慣れていて自然でかっこいい。私は映画やドラマの男の喫煙シーンが大好きだ。そしてタバコの銘柄や吸い方から人物を深読みするのが好きだ。あとイケメンが愁いを帯びた顔で咥えて煙を吐き出している姿は単純にとてもカッコイイという理由で大好きである。

行天は多田から躊躇なく貰いタバコをしているが、多田は行天のタバコを吸わない。その代りというか、行天がお菓子箱に入れておいたラキストを吸っている。ちなみに多田が自分で購入しているラキストはボックスタイプだが、行天がお菓子箱に入れているのはソフトタイプである。これについて理由はわからない。原作ではボックスかソフトかに言及はないので、ただ単に多田が自分で買ったものと行天が多田に買ったものの見分けをつけるためかもしれない。

多田が行天のタバコを吸わないのは味にこだわりがあるからで、ボックスを買うのもソフトだとだんだん味が落ちるからなのだが、行天が買ってきてくれたものはソフトでも吸っている、ということであるといいな、と私は思う。本当のところは知らない。多田は赤ちゃんができた時点で禁煙していそうなので、離婚してから強めのタバコを吸うようになったのかな、などとも思っている。実際はどうであるかはともかく、こういう深読みをするのは楽しい。多田が由良にタバコの煙を吹きかけて「美しい肺を煙で汚してしまえ、それが生きるということだ」という名言っぽいことを言うのだが、普通に最悪な大人である。

他にも、タバコが短くなったことで時間の経過を示したり、吸殻が積まれることで1日中事務所にいたんだなということがわかったりするのもすごくいい。また、「貧乏なんだからタバコ代浮かせればいいのに」と思った人はたくさんいると思うが、それがわかっているはずなのにできない多田と行天のダメさがわかるのもいいと思っている。原作では行天がタバコをポイ捨てし、多田がそれを拾って携帯灰皿に入れたりしている。ちなみに番外地シリーズにはタバコを使った素敵すぎる演出があるのだが、映画とドラマはパラレルワールドだと捉えているので、それはまた別の機会があれば。

 

まほろ市の魅力

最後に、この話の舞台である架空の街、「まほろ市」の魅力について言及しておく。表現は主に原作を参考とするが、映画でもこの街が映像として再現されているものと思って読んでほしい。

まほろ市は東京都の西南部に神奈川県へ突き出すような形であり、一応東京都なのに市内バスはなぜか横浜中央が独占しており、天気予報は東京のものを見ても当たらない。まほろで生まれ育った人はまほろを出て行かない。まれに出て行っても、またまほろに戻ってくる。ゆりかごから墓場までまほろはそういう街である。他にもまほろに関して様々な記述があるが、これは完全に東京の町田がモデルであるとわかる、らしい。らしいというのは私は地方住みで東京のことをよく知らないからなのだが、町田とはわからなくても「この街は実際どこかにあるんだ」ということはわかる。映画のロケも町田で行われている。

本当に存在する街だからこその圧倒的なリアリティ、しかしそれが「まほろ市」という架空の街であるからこそ、まほろは私たちの中に自由に存在することができる。どこにもないのにどこかにあると感じさせてくれるのである。

また、絶妙な治安の悪さがいい。まほろの夜はヤンキーで溢れ、駅裏には木造の平屋が並ぶ歓楽街がある。まほろで生まれ育った男はかなりの割合で駅裏に童貞を捨てているらしい。バスの発券所付近はいつでも吐瀉物とアンモニアの匂いが充満している。そんな街にある多田便利軒の事務所の散らかり具合もリアリティがある。こんなまほろだからこそ、いつもなにかしらややこしいトラブルが起こり、便利屋が活躍しているのかもしれない。

 

まとめ

多田啓介という男と行天春彦という男について自分の中で整理をつけたかったのでこの記事を書いたのだが、結局同じことを何回も書いてまとまらなかったような気がする。でも楽しかった。

まほろ駅前多田便利軒』は、一般的な「幸福」のルートから外れてしまった男ふたりの物語だ。 ほんの少しの歪みでルートからは簡単に外れる。一度外れてしまったら、もう一度戻るのは容易なことではない。でも幸福は再生する。生きていさえすれば、取り戻すことができるのである。

原作で、行天の元妻・凪子が「愛情というのは与えるものではなく、愛したいと感じる気持ちを、相手からもらうことをいう」と言う。多田と行天は今まさに、そういう関係性になろうとしている途中であるのだ、と私は思う。